2013年7月26日金曜日

日本に“激辛”料理が生まれなかった理由: 唐辛子から見る日本ピリカラ論

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●長野県北部の中野市などで栽培される唐辛子「ぼたんこしょう」(写真提供:松島憲一准教授、以下同)


JB Press 2013.07.26(Fri) 漆原 次郎
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38301

日本に“激辛”料理が生まれなかった理由
唐辛子から見る日本ピリカラ論(前篇)

 暑い盛り。辛いものを食べて暑さを吹き飛ばしたいと願う人もいるだろう。それをかなえてくれる食材が、唐辛子だ。

 赤く熟した実は見るからに辛い。実際に口にしてみると、やっぱり辛い。そして、食べているときは苦痛さえ覚える。ところが、しばらく経つとまたあの辛さが恋しくなる。唐辛子はかくも魅力的な食材だ。

 いまや世界中で育てられ食べられている唐辛子。真っ赤に染まったキムチ、チゲを食べる韓国や、口がヒリヒリするほど辛みの利いた麻婆豆腐を食べる中国南部と比べ、日本で唐辛子はさほど好まれないと言われる。だが、日本人には日本人としての唐辛子との長いつきあいがあったのもまた事実だ。そこからは、辛さの日本的な受け入れ方も見えてくる。

 今回は唐辛子をテーマに、日本における歴史と現代科学を追ってみることにしたい。前篇では、“辛さの日本的な受け入れ方”を探るべく、日本人と唐辛子とつきあいの歴史を追っていく。後篇では、唐辛子をめぐる科学研究の現状を、信州大学大学院農学研究科でトウガラシ研究を行っている松島憲一准教授に聞くことにしよう。
伝来から150年で豊富な種類に

 日本にどのように唐辛子が入ってきたのか。その決め手となる記録は見つかっていない。ただし16世紀の室町時代から17世紀の江戸時代初期の間に日本に入ってきたとされ、主に3つの説がある。

 1つめは、1542(天文11)年、ポルトガル人によって南瓜が豊後国(いまの大分県)に持ち込まれた際、一緒に唐辛子も持ち込まれたという説。2つめは、豊臣秀吉(1536~1598)が1592(文禄元)年と1597(慶長2)年に朝鮮出兵した際、持ち帰ったという説。これには秀吉側が朝鮮半島に唐辛子をもたらしたという説もある。そして、3つめは、1605(慶長10)年、南蛮人により煙草が入ってきたのと同じくして入ってきたという説だ。

 明確な“第一歩”が分からないのは残念ではある。しかし、むしろ、その後の日本での唐辛子の普及が早かった方に注目したい。

 主に東海地方の農業について書かれた『百姓伝記』という書物が天和年間(1681~1684)に世に出た。そこに唐辛子の記述がこうある。

 <赤くほそく身なるうちに大小あり、またみぢかく赤きに、なりの色々かわりたるものあり、赤きうちにとつとおおきなるものあり、また黄色なるうちに大小あり、下へさがりてなるものあり、そらへむきてなるものあり>

また、すこし遅れて1697(元禄10)年に出された『農業全書』という農業書にも、唐辛子について「大あり、小あり、長き、短き、丸き、角なるあり、そのしなさまざまおほし」と記されている。

 農業書だけでない。1712(正徳2)年に成立した図入りの百科事典『和漢三才図会』には、唐辛子が「数品あり、筆頭の如く、椎子の如く、梅桃のごとく、さるがきの如く、或はすずなり、或は上に向かふ、生は青し、熟は赤し、或は黄赤色の者もあり」と記されているのだ。

 これらはいずれも、唐辛子の大小、形や育ち方などの多様性を示している点で共通している。最も早く唐辛子が伝来した説をとっても、伝来からわずか150年ほどの間に、日本の唐辛子は様々な種類に広がっていたのである。

 ちなみに、『農業全書』と同じ年に出た、食用や医用の植物解説書『本朝食鑑』では、「多食すると、血を破り、眼を損ない、瘡毒を動かす」と、“唐辛子の食べ過ぎに注意”を示している。これも多食をしていた人がいることを示す証しになりそうだ。
大都市近郊で唐辛子栽培、七味も誕生

 江戸時代、いまの東京や関西の人びとが「こんなところで」と驚くような場所で、唐辛子は育てられていた。

 江戸では、新宿の先の甲州街道沿いが唐辛子の産地だった。信州高遠藩(いまの伊那市高遠)の初代藩主だった内藤清枚(1645~1714)が、1699(元禄12)年に江戸郊外に内藤新宿という甲州街道の宿場を開いた。内藤新宿から甲州街道にかけての道沿いには、唐辛子の畑があり、当時はこの一帯が唐辛子の産地だったと言われている。

 一方、京都では伏見が唐辛子の産地となった。1684(天和4)年に刊行された山城国(いまの京都府南東部)の地誌『雍州府志』には、唐辛子について「山城の国、伏見辺りで作られたものが有名」と記されている。いまも伏見は、「伏見甘」と呼ばれる、長くて辛くない唐辛子の産地である。

 もちろん新宿も伏見も、いまに比べればのどかな田舎だったに違いない。だが、江戸や京都という大消費地の近くで唐辛子が栽培されていたのである。唐辛子は大消費地で消費される人気の野菜だった。そう考えるのが自然だろう。

 実際、新宿や伏見で唐辛子栽培が始まるより前から、江戸や京都などで唐辛子を使った薬味が誕生している。いまも人びとに愛用されている「七味唐辛子」である。

 1625(寛永2)年、江戸・両国橋付近の薬研堀(やげんぼり)で、からしや中島徳右衛門(生没年未詳)という人物が、唐辛子、焼唐辛子、芥子の実、麻の実、粉山椒、黒胡麻、陳皮の7種類の薬味を混ぜ合わせた「七味(なないろ)」を売り出した。その後、江戸の街に、調合して七味唐辛子を売り歩く行商の姿が見られた。当時、この七味唐辛子は調味料というよりも、薬の一種として考えられていたようだ。なお、中島が開いた店は1943(昭和18)年に、浅草に居を移し、いまなお「やげん堀」として七味唐辛子を売り続けている。

 京都では、清水寺に向かう産寧坂で、「河内屋」が明暦年間(1655~1658)から、白湯に唐辛子の粉を入れた「からし湯」を参拝客や修行者などに振る舞うなどしていたという。薬研堀のからしやの影響もあったのだろうか、その後、河内屋も七味唐辛子を始め、1816(文化13)年には、店名も「七味家」に変えている。薬研堀のからしやにない特徴は、七味の1つに山椒を使っていることだ。

 さらに、信州・善光寺の門前にも、七味唐辛子の老舗がある。1736(元文元)年、鬼無里(きなさ)村(いまの長野市鬼無里)出身の初代勘右衛門(生没年未詳)が、善光寺の境内で七味唐辛子を売り出した。これが、いまも善光寺交差点角に店を構える「八幡屋磯五郎」の誕生である。八幡屋の七味唐辛子の特徴は、生姜が薬味に入っていること。江戸時代中期に消失した善光寺の再建では、大工たちの体を温めるため、七味唐辛子入りの汁が供されたと言われる。

 江戸、京都、信州。それぞれに少しずつ調合は違いながらも、七味唐辛子は日本の薬味として確立していったのである。
“慎ましやかな辛さ”を唐辛子に求める

 唐辛子はほかにも、漬け物、魚の保存食、炒め物、煮物などのお供として各地で使われてきた。日本での唐辛子の使われ方は、魚や野菜などの主菜の持っている本来の味を消し潰さないほどの、脇役的なものだったと言えるだろう。

 明治時代に入るまで、日本には肉を食べる習慣がほぼなかった。そのため、肉の強い味とのバランスを取るほど大量に薬味や香辛料を使う習慣もなかった。中国や韓国の人びとが唐辛子に強烈な辛さを求めるのとは一線を画す、日本の“慎ましやかな辛さ”を求める食文化の成立を、このあたりに見出すことができそうだ。

 戦後になると、食の多様化が一気に進んだ。そして唐辛子も食の広がりの中、様々な形で受け入れられていった。四川料理の麻婆豆腐が料理人の陳建民(1919~1990)の手で日本に入ったのは1952(昭和27)年。戦後にはまた、即席カレーも普及した。

 さらに1988年のソウル五輪前後から、キムチなどの韓国料理が日本でも本格的に受け入れられる。1990年代、唐辛子をふんだんに使ったタイ料理は「エスニック料理」と称されブームになった。スナック菓子では「カラムーチョ」「暴君ハバネロ」「大魔王ジョロキア」といった、辛さを売りにした商品が棚に並んだ。

 伝統的な接し方と現代的な接し方という2つの側面を持つようになった唐辛子に対して、それぞれに科学的な視点も向けられている。現代は唐辛子という辛い食材に、科学の眼が当てられた時代でもある。後篇では、いま行われている唐辛子の科学的研究を見ていくことにしたい。

(後篇へつづく)



JB Press 2013.08.02(Fri) 漆原 次郎
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38360

「激辛」世界一を目指さないのにはワケがある
唐辛子から見る日本ピリカラ論(後篇)

 辛い食材の代表格「唐辛子(トウガラシ)」をテーマに、前後篇で日本における歴史と現代における科学研究を追っている。

 前篇では、日本人と唐辛子のつきあい方を、伝来から現在に至るまで見てきた。
 遅くとも16世紀以降、唐辛子は日本人に食べられ続けてきた。
 日本の“慎ましやかな辛さ”への要求をそこに感じ取ることができる。

 そしていま日本人は、食の多様化とともに、様々な形で唐辛子を受け入れることになった。
 伝統性と多様性が相まみえる中で、唐辛子に科学的な視点も向けられ、
 新たな唐辛子の生かし方の研究も進んでいる。

 そこで後篇では、唐辛子を研究のメインテーマの1つにしている信州大学大学院農学研究科の松島憲一准教授に唐辛子研究の現状を尋ねた。

 科学、文化、産学連携と、様々な視点から唐辛子研究を進める松島氏に、唐辛子の辛さの秘密、日本における唐辛子栽培の発展性、そして日本人と唐辛子と未来を語ってもらう。

■ネズミでなく、鳥に食べられたい

 なぜ唐辛子に辛さがあるのか。
 この根源的な問いに対して、様々な視点から説明をつけることができる。

 まず、化学的な視点だ。
 19世紀、すでに西欧の研究者が唐辛子の辛さの正体を突きとめていた。
 その物質はいま「カプサイシン」と呼ばれている。

 その後、唐辛子には、カプサイシンとつくりの似た「ディヒドロカプサイシン」や「ノルディヒドロカプサイシン」といった物質も含まれていることが分かった。
 これらを含めた類似物質は「カプサイシノイド」という総称で呼ばれている。
 「唐辛子を食べたときの辛みに大きく影響するのはこの3つです」
と、松島氏は説く。

 生理学的な視点からも辛さの感じ方が解明されている。
 われわれの体の表面にあるバニロイド受容体という場所に、カプサイシンなどの辛み成分がはまることで、脳に辛さが伝わる。

 その辛さは、実は痛覚と温感によるもの。
 つまり、辛みは、甘みや苦みなどの味覚とは一線を画すのだ。
 「英語で唐辛子を“Hot”というのも的を射ています」

 進化学的な視点、つまり唐辛子がなぜ辛くなったのかには諸説がある。
 松島氏は、自然誌研究者ジョシュア・テュウスクベリーと農業生態学者ゲーリー・ナブハンが共同で2001年に「ネイチャー」に報告した説を紹介する。

 「唐辛子の種子は、ネズミに食べられると、糞からの発芽率が悪くなります。
 かつネズミの行動範囲も広くないので、種子を広めるという点では“食べられ損”となります。
 一方、鳥に食べられると、糞からの発芽率は高い。
 それに種子を飛んで遠くまで運んでくれます。
 カプサイシンの辛さは、ネズミなどの哺乳類には感じられますが、鳥にはあまり感じられません。
 鳥に食べてもらう一方、哺乳類には食べられないように、辛さを進化させていったというのがこの説です」

 他にも説はある。
 唐辛子を腐らせるフザリウムという菌から身を守るため辛さを発揮しているという説だ。
 菌の生じにくい乾燥地帯の唐辛子は辛くなく、菌が生じやすい高温多湿地帯の唐辛子は辛いという傾向があるというのだ。

 松島氏は
 「両方の説とも、自然界で唐辛子の果実中のカプサイシンがうまく働いている興味深い例と言えます」
と話す。

■ほんのりとした辛さの謎を解明

 世界では、より辛い唐辛子を目指した開発も行われている。
 スナック菓子の名前にも使われたことのある「ブート・ジョロキア」が、それまで世界一だった「ハバネロ・レッドサヴィナ」を辛さで上回り、2007年に“世界王者”の座に就いていた。

 だが、2011年に「トリニダード・スコーピオン・ブッチ・テイラー」という別の品種が、辛さのギネス世界記録に認定された。
 乾物1グラムあたりの総カプサイシノイド量は9万マイクログラムほどという計算になる。これはジョロキアの1.5倍に及ぶ辛さだ。

 松島氏によると、ジョロキアやハバネロなどは在来品種かそれに少し手を加えた程度の品種だったのに対して、ブッチ・テイラーは、“世界王者狙い”で品種改良され、栽培方法まで考えられてつくりだされたもの。

 さらに、「トリニダード・モルガ・スコーピオン」という別品種も、唐辛子の世界的権威である米国の研究者が“世界一辛い”と認めている。
 ジョロキア登場のあとも、辛さをめぐる熾烈な争いは続いているのだ。

 松島氏も、以下に見る通り、唐辛子の品種改良をしている。
 世界王者を狙う気はないのだろうか。

 「いまのところ参戦する気はありません。
 開発すれば話題にはなるでしょう。
 でも、それは日本で受け入れられるものではないからです。
 マイルドな辛さの品種を作る方が、日本の食文化には合っています」

 実際、松島氏は、ほんのりと辛さを感じる唐辛子の仕組みを解明してきた。
 これまで、“辛くない唐辛子”として知られてきたピーマンなどでは、辛みを完全に制御する遺伝子が見つかっている。
 一方で松島氏たちは、辛さを“完全に”抑えるのでなく、“極低量”に抑える別の遺伝子を発見した。
 この遺伝子を利用すれば、居酒屋などで運悪く出くわすシシトウの突発的な辛さなどを抑えることもできるという。

■目指すは地域が潤う唐辛子

 日本に合った唐辛子の開発とはどのようなものか。
 松島氏は、長野県などで採れる地元の唐辛子在来品種を保全し利用する一方で、新たな唐辛子品種を導入して地域産業に活用する取り組みも行っている。

 対象の1つが、「ぼたんこしょう」という長野県北部の在来品種の唐辛子だ。
 一見、ピーマンのような外見だが、果実のお尻のほうから見るとボタンの花のような高貴さも漂わす(上図)。

 地元には昔から、ぼたんこしょうを、在来の丸茄子、大根の味噌漬け、みょうがとともにみじん切りにして混ぜた「やたら」という生ふりかけのような郷土料理がある。
 「これはうまいですよ」と松島氏は太鼓判を押す。

 ぼたんこしょうを含む、県内の唐辛子在来品種のほとんどは、かつて自家用栽培をするくらいにとどまっていた。
 しかし、その土地ならではの唐辛子には高い商品価値がある。
 そこで、松島氏は地元の生産者と手を組んで、こうした唐辛子を産業化しようとしている。

 「唐辛子栽培は、中山間地向けです」とも言う。
 「軽量野菜なのでお年寄りでも扱いやすい。
 それに辛いので獣も寄りつかず、獣害にも遭いにくいのです。
 ぼたんこしょうのように、限られた地域でしか作られていない唐辛子は地域資源にもなります」

 松島氏は、ぼたんこしょうの甘みや辛みなどの味の成分や、抗酸化作用のあるポリフェノールなどの機能性成分の量を測るなどして、商品価値の科学的裏付けを取っている。
 産業化すれば、食文化の継承、農業の再生、遺伝資源の保全といった様々な効果が生まれそうだ。

 長野県には、地元で採れた唐辛子を食品に積極的に利用しようとする企業もある。
 松島氏は、そうした企業と製品開発を進めてもいる。
 その1つに、前篇でも紹介した、善光寺門前にある七味唐辛子の老舗「八幡屋礒五郎」との産学連携がある。

 「八幡屋礒五郎さんは多くの量を扱っているため県外産の唐辛子も使っていますが、名実ともに信州の唐辛子にしていきたいという社長の強い思いがあります。
 そのお手伝いをしています」

 信州の中山間地での原料用唐辛子栽培では、実が赤く熟す前に霜が下りることや、寒い地域では辛みが減ってしまうことが克服すべき課題となる。
 そこで八幡屋礒五郎と共同で、霜が降りないうちに赤く熟す早生で、かつ冷涼な気候でも辛さを保つような新品種を交配育種で開発している。

 他に、長野県飯島町に工場を持つ食酢メーカー「内堀醸造」とも協力し、酢との加工に適した唐辛子の品種導入を検討した。
 自治体とも連携し、飯島町の畑で採れる「チェリーボム」という品種を使った「すっぱ辛の素」という商品を誕生させた。

 「地域も儲かる。食品会社も儲かる。
 さらに唐辛子を求めて外から人が来る。
 在来品種を使用した場合は遺伝資源も保たれる。
 そのようなシステムをこれからもつくっていきたいと思っています」

■日本で食事の激辛化はどこまで進むのか?

 日本人と唐辛子のつきあいを長い歴史の中で捉えれば、ここ何十年は、伝来以来はじめての激動期と言えるのかもしれない。
 長らく日本人は唐辛子に“慎ましやかな辛さ”を求めてきたが、いまやラーメン、カレー、鍋、スナック菓子と、多方面の食で激辛化が進んだからだ。

 ただし、その激動も、なにもないところから起きたわけではない。

 「食文化として、七味唐辛子や地元の唐辛子などが途切れることなくずっと続いてきました。
 もともと日本人が江戸時代から持っていた、度を過ぎない“辛いもの好き”の下地があってこそなのでしょう」

 これから、唐辛子と日本人の関わり合いはどうなっていくのだろう。
 類いまれなるこの辛い食材を、松島氏は冷静に見つめる。

 「今後、唐辛子のような辛いものを食べる世代は広がり、若い人からお年寄りまで辛いものをさらに食べることになるでしょう。
 だからといって、日本のきつねうどんが全て真っ赤になるようなことは起きないと思います。日本人が続けてきた、日本食に合った唐辛子の使い方は、それはそれとして残っていくのではないでしょうか」

 変わらない部分と変わっていく部分。
 その両方を抱えながら、日本人と唐辛子の関係は続いていくことになる。





【気になる-Ⅴ】


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